研究報告 3-3

野崎泰伸 (のざき やすのぶ)

#報告題目

相模原事件の被告を〈赦す〉ということ

#報告キーワード

相模原事件 / 赦しの不/可能性

#報告要旨

 本研究は、2016年7月26日に起きた神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」において入所者など46名が殺傷された事件(以下「相模原事件」と略す)の被告に対してどう向き合うか、を対象とする。
 多くの論者が述べているように、被告は優生学的な言説を述べており、これは決して看過できるものではない。また、実際に「重度」であるとされ、「意思疎通のできない」と言われる障害者を選択的に殺してもおり、マイノリティに対する殺害という、最も許されざる形のヘイトクライムであることは言うまでもない。こう言ってよければ、私は被告を「悪の権化」であるとすら思う。
 では、優生思想にまみれた被告――その心の中は本当のところは知り得ないが、そのように考えずにはおれないし、少なくとも、被告も社会に存在する優生学的言説に影響されているとは言えるだろう――を、私たち社会はどのように迎え入れればよいのか。すなわち、私たち一人ひとりが、被告に対してどのように向き合えばよいのか。
 私は、これまで「死刑が答えではない」と述べてきた(野崎 [2017a]、野崎 [2017b])。そして、私は被告が〈赦される〉べきであると考える。しかも、被告が悔い改めようがいまいが、「無条件の〈赦し〉」が与えられるべきであると考える。
 これは、障害者だから殺されても仕方ないとか、誰もが優生思想を多かれ少なかれ持っているとか、被告が行ったことは行きすぎではあるがわからなくはない、といったことを主張するものではない。また、被告に本気で怒る人が周りにいなかったからこうした惨事が起きてしまった(立岩・杉田 [2017])、と述べるのでもない。障害者を選択的に殺してしまった優生学的実行犯に対して、私たちはいかに向き合うべきかという論点こそがここで考えるべき主題なのである。
 それでは、相模原事件の被告を〈赦す〉とはどうすることなのか、そのような〈赦し〉は果たして可能なのか、被告が「無条件に」〈赦される〉とすれば、世の中の多くの優生思想にまみれた人たちもまた改悛せずに、障害者に対する差別的な思想を持ったまま生きていてよいのか、そのような論点を考えてみたい。
 本研究は文献研究ではあるが、現在進行中の事件を扱うものでもあり、細心の倫理的配慮を払うものとする。

野崎泰伸 2017a 「相模原事件が私たちに問いかけるもの」,『福音宣教』2017年3月号,pp.34-40
野崎泰伸 2017b 「行為における自由意志と責任――相模原事件に関する河合幹雄氏の諸論を批判的に検証する」,『精神医療』86号,pp.45-52
立岩真也・杉田俊介 2017 『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』,青土社