ポスター報告 3

橋田 慈子 (はしだ なりこ)
筑波大学大学院人間総合科学研究科博士後期課程・日本学術振興会特別研究員

#報告題目

内なる差別意識を課題化する「親」の学習活動の成立と展開 ―手をつなぐ育成会・親の会参加者を事例に―

#報告キーワード

知的障害者 / 親の会 / 内なる差別意識

#報告要旨

1.問題の所在
 障害のある子どもを持つ親は,どのようにして内なる差別意識や偏見の問題に向き合ってきたのか。ここでは,青い芝の会の運動が「脱親」「脱家族」を主張した1970年代以降に知的障害のある子どもを持つ親が取り組んできた学習活動に焦点を当てて報告を行う。
 1970年代には,知的障害のある子どもに対する殺害事件が相次いで発生していた。そのため青い芝の会の横塚晃一(1975)が「親の偏愛をけっ飛ばさねばならない」と主張したことや,「脱親」「脱家族」論の主張は,知的障害のある子どもを持つ親にとっても無視しえない課題として受け止められていたと考えられる。
 しかし当時の精神薄弱者育成会(現在の手をつなぐ育成会連合(以下,育成会))の機関紙を分析した森口弘美(2016)は,機関紙に障害者運動の影響を受けた記述がなかった点を指摘し,育成会が親役割から「降りる」ことを積極的に主張できていなかったと述べる。たしかに育成会参加者は運動主体である以上,「親」という役割から「降りる」ことを明言することは難しいかもしれないが,障害者運動に影響を受けて自らの態度や役割規範を反省的に捉えていた可能性は否定できないと考えられる。
 
2. 研究目的・方法
 本研究では1970年代半ば以降の育成会の機関紙『手をつなぐ親たち』の記述や世田谷区親の会参加者の語りを参照し,この間に親がいかにして自らの意識や態度を反省し,新たな活動を模索し始めていったのかを解明する。本研究を実施するにあたって,1970年代以降に世田谷区親の会の活動に参加してきた親7名への聞き取り調査を行った。
 
3.調査結果の概要
 1970年代に活発化した障害者運動では,障害のある人びとを健常者と異なる空間に隔離することが偏見を生み,新たな排除につながる点が問題視された。障害者施設や養護学校が障害者の親の要求運動に影響を受けて誕生していたことから,批判の矛先は障害のある子どもを持つ「親」にも向けられることとなった。さらに1970年代に親による障害児殺しの事件が相次いだことから,「殺される側」に立たされた脳性麻痺者による「脱親」「脱家族」の主張が激化した。
 そうしたなかで育成会は親の姿勢を反省的に捉える特集記事を数回にわたって組んでいる。例えば,1980年6月号の機関紙『手をつなぐ親たち』には「“偏見”をのりこえるために」という特集が組まれている。そこでは障害者運動のなかで批判された親自身の偏見・差別意識の問題が取り上げられ,親たちがまず「積極的にそれをこわして行く努力」を行うべきであるという主張が展開された。さらに1983年には周囲の人々の偏見を解消するために親が「子どもをなるべく外へ連れ出して,日常的に接してもらう機会を積み重ねる」ことが大切であると指摘された。
 1980年代以降日本では施設福祉から地域福祉への福祉政策の転換が図られた。世田谷区親の会の活動に目を転じてみると,地域福祉政策への移行が進むプロセスで,知的障害者と住民との地域活動が取り組まれ始めていた。地域活動に参加した親たちは,活動に参加する地域の大学生や民生委員,商工会のメンバーとの社会関係を構築し,彼/彼女らが知的障害のある子どもに対して「普通に接している」様子を目のあたりにするなかで,知的障害のある子どもに対する自身の見方を反省していた。すなわち知的障害者の親は,周囲の住民との関係性を構築するなかで自らの意識・態度を反省的に捉えていたことが浮き彫りになったのである。
 本研究の結果,①障害者運動を通して問題視されてきた親の差別意識や偏見的態度は1970年代以降の育成会・親の会の学習活動において課題化されていたことが分かった。さらに②親自身の差別意識や偏見は,周りの人(地域住民)との学習活動と相互作用を通して解消されていた点も明らかになった。

〔註〕
本研究では調査協力者に対して,協力者が特定できないようにすることと,公開時に同意を得ることを条件にして同意書をいただいた。なお,聞き取り調査の実施については筑波大学人間系倫理審査委員会の承認を得ている。

〔文献〕
横塚晃一,1975,『母よ!殺すな』すずさわ書店
森口弘美,2015,『知的障害者の「親元からの自立」を実現する実践―エピソード記述で導き出す新しい枠組み―』ミネルヴァ書房
全日本精神薄弱者育成会,1980,『手をつなぐ親たち』6月号,15-16
全日本精神薄弱者育成会,1983,『手をつなぐ親たち』6月号,26  ほか