岸田 典子 (きしだ のりこ)
立命館大学先端総合学実研究課
#報告題目
障害者解放運動を牽引した楠敏雄のおいたち
#報告キーワード
楠敏雄 / 障害者解放運動 / おいたち
#報告要旨
1970年代初頭、脳性マヒの横塚晃一や横田弘たちが中心となって始まった「青い芝の会」の障害者運動は当時の日本社会に強烈な印象をあたえた。その後「青い芝の会」の運動理念や思想に関して、現在にいたるまで様々な角度から研究が行われている。他方、同時代京都や大阪を拠点として障害者解放運動を行ってきた楠敏雄について、本格的な研究はまだ行われていない。
「青い芝の会」がそれまで重度障害者(24時間介助を必要とする)が社会のなかであってはならない存在としてとらえられていたが、そうした社会の在り方を批判しどんなに重い障害をもっていても人間としての存在価値を強烈に社会に訴えたことは、それまでの障害者政策に風穴をあけるものであり、その後の障害者福祉の在り方におおきな影響をあたえるものであったといえよう。他方、楠が提唱した障害者解放理念として、障害からの解放ではなく差別からの解放・どんなに重い障害があっても地域で生きぬく・当事者自らが差別と闘うこと。さらに筆者が付け加えたいこととして、障害の枠を超えともに共闘しながら差別と闘うという理念はいまもなお色あせることなく障害当事者や支援者のあいだに生き続けていると思う。楠は、差別からの解放をめざし、亡くなる直前まで闘い続けた。しかしながら、彼のこれまでの社会的活動について研究がまだ行われていないことはまことに残念なことである。このまま楠に関する研究が行われないままにしておくことは、我が国の障害者運動の歴史を後世に継承していくうえでよくないのではないか、このまま楠の業績が風化してしまうことに懸念を感じ今回ポスター報告を試みることを決意した。
楠を障害者解放運動に駆り立てた大きな理由としてそのおいたちがあげられる。今回は、盲学校生活と大学受験について考えてみた。
なお、下記の内容は楠から聞き取りした資料が中心である。
1944年北海道岩内に生まれる。2014年2月死去、享年69歳であった。
楠は2歳のとき、医師の治療ミスによって両眼とも失明。1年間の就学猶予をへて、1952年小樽盲学校小学部に入学。その後15年間にわたり盲教育を受ける。
この盲学校生活のなかで、楠の将来におおきな影響を与えたことがらが4回あった。
1.小樽の盲学校は義務教育までで、高等学校からは札幌にある、札幌盲で按摩・指圧・鍼・灸(以下三療とする)の職業教育を受けることになっていた。中学3年生の時、担任教師から「君たちは札幌で三療の教育を受けるしか進路はない」と告げられショックをうける。この時点で、視覚障害者には職業選択の自由がないことを知らされたと楠はいう。
2.札幌盲に移って楠は青春を謳歌していたが、将来働くであろう三療業者の見学に行き、その実情にショックをうける。そして、盲学校の三療を教える教員を目指すため、大阪府盲に転校する。
3.1960年代、我が国の盲教育にあっては東京、大阪、京都の盲学校のみに普通科目を学ぶ普通科があり、それ以外の盲学校では三療の資格をとるための職業教育が行われていた。大阪府盲に転校した楠は、そこで初めて視覚障害者が点字で大学(健常者が通う大学)に受験できることを知る。そして、同志社大学を受験するが不合格となりあらためて京都府盲の普通科専攻科に転校する。
4.京都府盲に転校し全盲の英語教師に励まされながら受験勉強にはげむことになったが、その現実は現在とは比べ物にならないものであった。たとえば、入学試験の時間は健常者と同じ・漢字の問題は0点・点字受験を行う大学は少なく国立大学では東京教育大学(現筑波大学)(夜間部)のみ、私立大学のごくわずかであったという。
ここで楠は、視覚障害ゆえの直接差別、間接差別をうける。また、大阪府盲時代には長期休みを利用してマッサージ師のアルバイトをして、苛酷な労働条件のもとで働く体験をする。しかしながら、盲学校でのさまざまな経験の意味するところは大学に入学してはじめて楠の心をとらえたものであり、かりに楠が三療業者で労働者として働き続けていたら政治的思想に出会わないかぎり、障害者と差別また社会のありかたについて考察する機会はなかったのではないかと推測する。
最後に倫理的配慮について
本研究における調査対象者はすでに死亡しているが、対象者を知る者たちへのインタビューも試みるなどしているため、研究にかかわるすべての者の人権を尊重するなど、倫理的配慮を行うものとする