takuya maeda - sociology

前田拓也(社会学)の研究 / 仕事 / 業績など

misc

前田拓也, 20130715, 「セクシュアリティ/身体をケアの場面でどう扱うべきか?」
(福祉社会学会編『福祉社会学ハンドブック──現代を読み解く98の論点』, 212-213.)


A5判並製
244頁
¥2,800+税
9784805838754
[版元] [amazon]

本文

(※以下は校正前の段階のものです)

keyword: セクシュアリティ、身体規則、相互行為としてのケア

 ケアする者とケアされる者とが具体的なケアの場面で経験するさまざまな「当惑」のなかでも、セクシュアリティに抵触するかたちで経験されるそれは、これまで語ることの難しい問題であり続けてきた。具体的には、排便・入浴・着替えといった、日常生活に不可欠な活動に対して他者からの一定のアシストが提供される場合にしばしば避けることの困難な、不快感、嫌悪感、羞恥心といった感情がそれである。
 こうした、セクシュアリティを巡る当事者たちの当惑を、ケアの現場で「どう扱うべきか」、あるいは「どのようにすれば問題として顕在化しにくいか」という問いに対しては、「同性介助の徹底」が当面の解として示されてきた。
 しかし、「同性介助」という案は、かえってさまざまな問題を生み出すことにもなるだろう。1つに、ケアの担い手として女性が想定されてきたという経緯から、ケアされる男性からケアする女性への「セクシャル・ハラスメント」(とその防止)の文脈でのみ理解されてしまうこと。さらに、ケアする者・される者がともにヘテロ・セクシュアルであるという想定を強化してしまうことなどが挙げられる。
 もちろんこれらの問題を等閑視してよいわけではないし、互いに複雑にからみあっているので、それぞれを厳密に弁別できるわけではない。しかし、こうした「セクシュアルな当惑」は、それを下支えする「他者の身体に触れるおこない」そのものを巡る問いとともに検討されねばならない。例えば、入浴に介助が必要な場合には、介助を受ける者は当然ながら全裸にならざるえないし、介助する側も裸(に近い状態)になる必要があることも少なくないことを考えれば、他者の裸体(性器)をまなざす/まなざされる、あるいは、触れる/触れられることによって経験される当惑は、かならずしも同性同士であれば避けられるわけではないことがわかるだろう。さしあたってここでは、いわゆる「身体介護」の場面を例にとりながら、ケアする者とされる者が経験するセクシュアルな当惑がいかにして生起するかについて考えてみよう。

(……)

注・文献
1 ── 岡原正幸, 1995, 「コンフリクトへの自由——介助関係の模索」, 安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也編『生の技法——家と施設を出て暮らす障害者の社会学(増補改訂版)』藤原書店, 121-146.
2 ── Goffman, Erving, 1963, Behavior in Public Places: Notes on the Social Organization of Gathering, Glencoe, IL: The Free Press.(=1980, 丸木恵祐・本名信行訳『集まりの構造──新しい日常行動論を求めて』誠信書房.)
3 ── Hochschild, Arlie Russell, 1983, The Managed Heart: Commercialization of Human Feeling, University of California Press.(=2000, 石川准・室伏亜希訳,世界思想社.)
4 ── 前田拓也, 2009, 『介助現場の社会学——身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』生活書院.



review


referred