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前田拓也(社会学)の研究 / 仕事 / 業績など

book reviews 書評

前田拓也, 20110630, <書評> 「倉本智明編『手招くフリーク——文化と表現の障害学』」
『社会学評論』62(1), pp.129-130.
[CiNii]

本文
 障害(者)を論じようとする本のタイトルに「フリーク」の語を含めるという挑発。わたしたちを魅惑すると同時に恐怖の対象でもある「フリークス」が、こちらを手招きしているかのようなこの論集は、障害の政治を論じるあたって、こんな語り口があるし、あってもいいんだよ、こっちへ来て一緒にやってみないか?という招待状のようであると同時に、一見雑多なトピックと書き手による、一種の顔見世興業でもあるようだ。
 編者の倉本智明も述べるように、障害(者)を巡る研究や批評においては、介護や就業など生活の根底に関わる問題、あるいは、制度設計をめぐる原理的な問いといった、考えようによっては大変に泥臭くも切実な議論が中心に置かれてきた。それらに比べ、「文化と表現の障害学」というサブタイトルを冠した本書のように、マンガや小説や音楽を通して障害や身体を巡る表象と戯れるさまは、どこか呑気で「切実さ」を欠いたものに映ってしまうかもしれない。しかし、そこで互いの「切実さ」を競いあってもしかたがない。むしろ、この社会の制度や価値を知るにはこういう方法だってあっていいんだよ、ということなのだろう。
 本書に収められた論考は例外なく、文化として流通するさまざまな表現行為が、政治/社会のありかたから完全に自由でありうるわけなどないという当たり前の事実から出発していることは共通しているが、その方法として、必ずしも常に「障害者」が取り上げられているわけではないことにも大きな特徴がある。
 本書は10編の論文からなる。内容をおおまかに5種類に分類できるだろう。ある表現や作品ジャンルのなかに見られる一定のパターン化された語り口を取り上げ、詳細に分析したもの(1、2章)。障害を持つ身体を取り上げた、どちらかと言えば啓発的な言説を批判的に分析したもの(3章、4章)。直接的に「障害」を取り扱っているわけではないが、異形(ルビ: フリーク)を扱うことでしかし結果的に扱うことになりうる表現あるいは身体のありかたを論じたもの(5章、6章)。描かれ、まなざされてきた「対象」としてではなく、表現する主体としての障害者を論じたもの(7章、8章)。そして最後に障害者として消費することを当事者の視点から論じたもの(9章、10章)。以上の5種類である。
 これらすべてに共通するのは、著者たちがいわば「内側」から語っている(ように見える)ことだろう。つまり、分析の俎上に載せられる表現を、まずは筆者たち自身が好んで消費し、「その表現が置かれた<場>に認められる独自な作法や感受性」(p17)を理解したうえで論じている点である。論者たちは、「障害(者)」が論じられる際にありがちな、「福祉」的、といって悪ければ、「啓発的言説」からなるべく距離を置こうとしているように見える。それは、<場>の外部にあるかのような「『人権』や『福祉』の語彙・文法」といった一定のものさしで表現物や表現行為について語るという「粗暴なふるまい」(p10)を遠ざけようとすることでもある。
 しかし、「表現されたものをただ批判するのではなく、ある種の愛をもって論じるというスタンス」を保つことは、そう簡単なことではない。たしかに「愛の有無」を言ってしまえばわかりやすいような気もしてしまうが、では愛があれば十全に論じられる、あるいは論じる資格や能力を担保しうるのかと言えば、もちろんそんなことはない。「対象を突き放す」作業もなく、「愛」のままに語ってしまうことからも距離を取る。そうしたことも、常に意識されなければなるまい。
 また、たとえば「作品としてのよさ」と「人権や福祉の文脈でのよさ」を共に持ち合わせたなんらかの表現があったとして、では、「人権や福祉の文脈でのよさ」を差し引いた「純粋な作品としてのよさ」というものはあるのだろうか。判断は難しいと思う。一方で、「作品としてのよさ」を持ち合わせてはいないが、「人権や福祉の文脈でのよさ」(の称揚)というものは、なぜだか「ある」ようにも思える。と言うか、見たことがあるような気がするし、ある意味ではそちらのほうがわかりやすかったりもする。そして、「作品それ自体としては決してよくはないが、人権や福祉の文脈で見ればよい」という表現の存在それ自体の良し悪し、つまり価値をどのように決めることができるのかという問いは依然として残る。
 いずれにせよ、今この本を目の前にしたわたしたちができること、すべきことは、「障害」をめぐって、なにがどのように表現されており、それがどのように読まれているのかを、社会的な文脈の中で捉えること。そして、その方法として、内在的であることを選ぶということ。つまりわたしたちの社会で現にいまなにがおこなわれているのかを記述し、知るために、本書はまず最初の一歩としてふさわしい一冊だと思われる。


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