前田拓也(社会学)の研究 / 仕事 / 業績など
book reviews 書評
(*以下は初稿です。引用にあたっては、原著をあたってください。)
#本書の位置づけ
本書、深田耕一郎著『福祉と贈与』は、日本の障害者運動、とくに、公的介護保障要求運動の中心を担ってきた全身性障害者、新田勲のライフヒストリーと、彼を取り巻くさまざまな人びと──著者を含めた彼の介護者をはじめとした、障害者運動にかかわる人びと、家族、そして「元カノ」──といった人びとの聞き取り、そして、著者自身の介護者としての経験をもとに、新田の言う「福祉活動」や、介護者と「ともに生きる」実践とはどのようなものだったのかが詳細に跡づけられている。なによりその唯一無比の、強烈なる個性をもった個人の生活史を描くことが、日本の公的介護保障要求運動の歴史を描くことそのものでありうるということにまずは驚愕させられるのだが、しかし彼のこれまでの足取りにあらためて注目が集まるようになったのは、そう古いことではない。
のちに検討するように、介助を、障害者が暮らしていくうえでの手段とみなし、「サービス」化を志向することで、「いつでも、どこでも、だれでも」利用可能とすべく一般化/普遍化することに成功してきた自立生活センター(以下、CIL)式の運動を、華々しい「成功例」とみなした地点から構成された障害者運動史からは、等閑視されてきた、と言ってはさすがに言いすぎではあるだろうが、少なくともアカデミックな領域のなかで、彼の足取りをあらためてたどり、顧みられることはあまりなかったと言ってよいだろう。
それが少しずつ変化を見せ始めたのは、まずは、新田自身の手になる、これまでの自身の運動の総括と、「現在」の問題をあらためて確認しなおした真正面からの福祉論である[新田2008→2009]があり、その後、[渡邉2011]では、いまなおその意義を汲みつくしきれていない障害者運動の源泉の1つとして新田の介護保障運動の歴史が取り上げられ、検討された。さらには、またも新田自身による上下巻という大部の自伝となった[新田2012]があり、そしてついに本書が、新田再評価の決定打となる1冊になったと言えよう。
他者に助けを請わなければそもそも生存自体がままならないという「負い目」を主体的に生きた、全身性障害者・新田勲。その新田の言う「福祉活動」がいったいどのようなものだったのかについて、深田は、福祉をめぐる「価値」が論争的であることを踏まえ、その論争・闘争の過程それ自体を記述しようとしてきた。この試みから読み取れるのは、たとえば原一男が、かの井上光晴をして「全身小説家」と呼んだように、全身"性"障害者というよりむしろ「全身障害者」とでも呼ぶのがふさわしいような、「障害者であること」をとことんまで生き抜く新田の姿である。しかし一方でこの本は、新田勲という強烈な個性をもった1人の全身性障害者の、単なる評伝ではない。「福祉を贈与として存立させることは可能か」という問いに取り組んだ、あくまでも「福祉の社会学」である。
出版からすでに時間が経っていることもあり、一定の書評もすでに出揃っていることであろう。そこでの高い評価を、ここでいまさら繰り返すまでもない。議論の一般的な整理をあらためておこなおうことはやめて、いくつかの論点に的を絞って見ていくことにしよう。
# 公的介護保障要求運動 vs CIL
##エスノグラフィーとしての意義
近年、「ケア」や「支援」をめぐる社会学の研究動向においては、それらを「身をもって」考える研究や議論が活発になってきているとされる。また、こうした議論ないし方法は、支援の現場の「日常性」から出発するとともに、つねに研究者/調査者による自分自身への問いかけにならざるを得ないという(出口 2012)。まずは本書もまたこのような、「身をもって」調査し、考える研究の一潮流に位置づけることができるだろう。
本書では 1. 福祉の送り手と受け手の相互作用過程に着目し、 2. 「福祉」という現象を価値中立的に把握し、3. 運動の要求に対してわれわれはどう応えることができるのかに関心を向け、「社会」の側の応答可能性を論述することにあるという。福祉とはなにか、なんであるべきなのかという規範的な正しさを先取りするのではなく、なにが福祉であるのか/あるとされてきたのかを、福祉の送り手と受け手の、あくまでも具体的な相互作用のなかからみていくという立場が採用されている。
その際、準拠点になるはずなのは、言うまでもなく、まさに著者である深田自身が参与観察のなかで経験してきた、あるいは、現場の介助者として経た、「介護者になる/なりゆく」経験、つまり、障害者介助の経験を通した「自己の変容のプロセス」の記述である。実際に、本書の冒頭近くでは、「介護者になる」経験から書き始められている。これは単に「調査/取材」開始時点での「手続き」を明らかにするためだけの記述ではないはずだ。ここには、「介護者の経験を語ることなしに介護あるいは福祉という営みを考えることはできない」(109)という著者の明確な立場があってのことだろう。こうした立場性の中身については、本書にとって(裏の意味での)重要な準拠点となっているCILモデルの検討と対比を通して明らかにしておこう。
## CILとの対比 / 「サービス」であることへの違和
障害者運動のなかでも、ときに「CIL系」と称されることもあるこの事業スタイル──「CIL≒立岩モデル」でも「バークレー・モデル」でも「中西正司モデル」でも、呼びかたは実際なんでもよいとは思うが──は、介助を「サービス」と捉え、同時に、それら「介助サービス」を利用する障害者たちを「消費者」と捉えるだろう。介助が有償の「サービス」として提供されることの主たる意義は、介助「量」の安定と確保、および、介助者に責任をもって介助を担わせることにある。同時に、介助を利用する障害者にとっても、あくまでも介助サービスを利用する「消費者」としての自覚を促すことにもあるだろう。
まずはこうしたシンプルかつドライな部分にこそ、これまでCILが一定の成功をおさめてきた理由の一部があったと評価できる。CILが依って立つ介助システム論は、貨幣という透明なメディアを介した「社会」全体の「負担」──具体的には税の再分配──を求めてきたとも言える。ひとびとは、直接的に担わない代わりにカネで担っている、というわけだ。
また、介助者は、障害者本人の自己決定を「手足/道具」となって実現する手段 ”でしかない”。いわゆる「介助者手足論」と呼ばれてきたその主張を通して求められたのは、まずは、健常者による障害者へのパターナリズムを遠ざけることである。
さらにこの主張は、障害者と健常者の非対称な関係性を日常的のレベルで問いなおすための論理でもあった。言い換えれば、介助を担うことになる健常者にとっては、知らず身につけられ、ルーティン化された「健常者としての、ふつうの身振り」をみずから振り返る契機ともなってきたのである。介助者はときに、よかれと思ってつい「やり過ぎ」てしまう。だから、介助者は 聞いてから動く/言われたことだけをやるのがよい。
## エロスの交易と関係の実質
一方で深田は、介護を「エロスの交易」──有用性や計算合理性とは結びつきにくい「無為」の時間であり、ロゴスには還元されないエロスを伝達しあう性格を持つ、「人間と人間を結びつけ拘束しあうエロスの力」(91)──と呼び、「福祉はドラマティックでなければならない」(!)として、CIL的な「サービスとしての介助」に対する批判を展開する。CILは、プールした介護者をサービスとして派遣し、利用者の拡大を促した。その際、介護関係は、サービスを提供する供給者と消費者の関係へと変移した。こうしてCILは、自立生活の進展に貢献した一方で、「消費者主義や当事者の自己目的化」によって、互いの存在に無関心なかかわりを前提とする、介護の『コンビニスタイル化』を生んだ」。これは「サービスの拡がりの裏返し」ではあるのだが、同時に、「『関係にもとづく介護』が捨象されていく過程でもあった」。つまり、「集団の規模が拡大するにつれて、共同体を志向することと普遍化を志向することのジレンマが生じ」(574-575)たと言う。
要は、CILは「"規模の拡大" か "関係の実質" か」ということで言えば、前者の、量的な意味では成功しているけれど、他者との関係の実質を豊かにしていく──運動にかかわる「ともに生きる」実践者であることを求めるような「関係にもとづく介護」──という意味では失敗している(618)というわけである。
しかし、ここで言われる「関係の実質」とやらも、それをどのレベルで言うかによって評価を異にするだろう。深田は、新田勲という、強烈な個性をもった、ある種の「カリスマ障害者」への介護経験を前提に議論しているのだが、そうした特別な人から横溢する特別な生命力とエロスは、たしかにあこがれの対象ではある一方で、そんな彼と格闘することで得られる経験が「ドラマティック」なのだと言われても、「それはそうだろう」という以上の感慨はない。それを称揚されても、そんな「すごいひと」の生を基準に語られても、困ってしまうようなところがある。
圧倒的なカリスマには、魅力と退屈さが否応なく同居してしまうようなところがあって、その生の力強さ、眩しさにただただ平伏すしかないという思いを抱かされると同時に、それがその人個人に限定されたことがらとして、「それはその人が単にすごかったんですよね」で終わってしまうようなところがある。たしかに新田が強烈な「贈与の一撃」を放つことのできる、唯一無比の存在であることはだれもが認めるところだとして、しかしそれが「福祉にふたたびドラマを!」という呼びかけにまで敷衍されてしまうと、どうにも落ち着かなくなってしまうのだ。
言うまでもなく、多くの「ふつうの障害者」はカリスマ性など持ちあわせてはいない。特段の「魅力」にあふれてもいない。ほとんどの健常者がそうであるのと同じように、である。だからやはり、一部の「カリスマ障害者」にのみさまざまな支援者が集まり、介護者を確保することができてしまうのではなく、サービスとして普遍化する必要がある。しかしカリスマ性のある障害者は、介助者を供給するシステムがどのようなものであれ、やはりカリスマ性を持ち続けるだろう。そして、それはそれ、であり、そのことは介助の供給のためのシステムとは常に別個の問題であらねばなるまい。
そして同時に、ここであらためて確認しておかねばならないのは、CILはあくまでも「サービス」なんだから、介助者との関係はドライなものなんでしょう?「コンビニスタイル」なんでしょう?などという簡単なはなしで、現実は成り立っていないということである。「カリスマ性ゼロのふつうの障害者」とのサービスを介した関係のなかにも、「瀰漫するエロス」はしかたなくあってしまうだろうし、割り切ったはずのところにふと溢れだしてしまうドロドロは、やはり残り続けるだろう。
CIL的な介助システムは、たしかに、出入り自在のドライな場として設計されてきた。しかし、にもかかわらずやはり、じつは「介助者になること」は、それまでの健常者としての生活史(生活背景)を問いなおすことでも “あってしまう” ところがある。そうであるべき、というよりも、どうしてもそうなってしまうのだ。しかし肝心なのは、それを、だれがどのように語るか、なのである。
介助を徹底してドライなサービスとして、介助の場を出入り自在の場として捉えてみることの意義は、あえて言うなら、介護関係を語る語彙が「福祉ポエム」に陥ってしまうのを退けることにもあったのではないか。介助し、される関係性のなかに「共感」や「あたたかさ」や「きずな」や「なかま」はかならずしも求められていない。もちろん、事実としてそうあってしまうこと自体は、じつはなにも否定されてはいないのだが、しかしここではむしろ、「そのような語彙で語ること」への警戒感のほうがむしろ先に立っていると言ってよい。つまりここで問題になっていたのは、関係性が実際にどのようなものであるかということ以上に、それらを語る際に用いられている語彙のヴァリエーションなのではなかったか。うっかりエロスが──それこそ「指先」のレベルから──漏れだしてしまうという事実を、否定してなどいなかったはずである。むしろ、よく知っていたからこそ、あえてドライに、「そのような語彙を選んで」語ってきたはずなのだ。
このように捉え直したとき、CILモデルと「ドラマチック福祉派」との差異(とされてきたもの)を別の角度から整理し直すことができるだろう。「CIL≒立岩モデルから抜け落ちているのは介護者の経験だ」(109) と深田は言う。この点は、評者もまったく同意するところである。すなわち、「エロスの交易」を、だれがどのような語彙で語るのか。これが、古くて新しい問いとして再浮上するだろう。
# 他人の家に上がりこむこととしての介護・介助
## 「ひとりぐらし」?
では、そうした、介助者にとって「どうしてもあってしまうもの」として経験される自己の変容、あるいは生活史の問い直しとは、具体的にどのようなものなのだろうか。そして、それを言語化することが、上にみた障害者運動の置かれた現状にとってどのような意義をもちうるだろうか。
自立生活を営む障害者たちは自分たちの暮らしを「自立生活」と呼ぶよりも、日常的にはむしろ「ひとりぐらし」と呼んでいる。もちろん、言葉通りの意味でそうであるわけではない。たくさんの介助者たちが入れ代わり立ち代わりやってくる。もちろん障害者にとっても、この人数の多さが負担でないわけではない。少なくとも、その1人1人といちいち「なかよし」をやってはいられない。しかし、これを単に、サービスとしてシフトを回していった結果として生まれた「しかたなさ」として、あるいは、受け入れざるをえない負担としてのみ捉えるべきでもない。
熊谷晋一郎(2013)は、「自立は依存先を増やすこと」だと述べる。一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされているが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけない。たとえば、地震でエレベーターが止まってしまったら、逃げるということを可能にする“依存先”が、障害者にはほとんどない。健常者は、エレベーターが止まっても、階段やはしごといった"依存先"がある。つまり障害者とは、「依存先が限られてしまっている人たち」のことである。健常者はさまざまなものに依存でき、障害者は限られたものにしか依存できていない。実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態である。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができる。
このように、「依存先を増やす」という意味で、まず介助者は、多ければ多いほどよい。リスクの分散と言えば身も蓋もないが、サービスとして "替えが利く" ことは、「関係の実質」を求め、「運動にかかわる『ともに生きる』実践者であることを求める」ことによって、「介護者が集まらなくなってしまった」(深田 2013: 571)運動よりも、「依存先を増やす」ことができるだろう。
## 入ってくる/混ざり合う
CILにおける介助は、介助をサービスないし商品と捉え、介助を利用する障害当事者を「消費者」とする、ドライな主張を基礎としている。しかし介助は、多かれ少なかれ、「他人の暮らし」への侵襲を前提としたおこないである。また、それゆえ介助現場は、さまざまなライフヒストリー(生活史/生活背景)の交錯する場でありうる。
久保田裕之は、シェアハウジングという暮らしかたを実践する意義を論じるなかで、「他人との生活は、他人を知り、自分を知ることを通じて、自分の家族のなかでは常識として体にしみこんだ、いわば「家族文化」を相対化することを通じて、相手との「距離感」の調節の仕方や、他人の「尊重」の仕方を学ぶきっかけになりうる」と述べ、そうした意味での「自律」の機会を、日本は制度的に欠いていると指摘する(久保田2009: 117-118)。基本的に「非家族を排除してきた住居のなかに、在宅介護ヘルパーといった他人がオフィシャルに出入りする」(前掲: 111)ようになることの意味はたしかに大きい。
これと同様のことは、文脈こそ違うが、障害者の介助というおこないにおいても指摘できるだろう。 たとえば、掃除における清潔感覚など、家事に対する期待水準、いわば「サービスレベル」(前掲)は、ケアのクオリティを規定する。いわゆる「家事援助」としての介助が、どこまでをやるべきか、どのあたりのクオリティを保つか、あるいは、よしとするかというのは、その人の生活背景から決まってくることだろう。もちろんこれは、介助される障害者たちだけが経験することではない。介助者たちもまた同様に、自身の生活感覚に他人のそれが侵襲してくる経験をすることになる。
こうして、自己を変容させるための「出会いの技法」としての介助、という主題が立ち上がってくる。
介護/介助の現場はたしかに、健常者と障害者、世話する者とされる者相互のライフヒストリーが交錯し、侵襲しあう場である。また、健常者にとっては、障害者との接触によってもたらされるなんらかのノイジーな経験によって主体を再帰的に構成しなおす場でもある。
もちろん、介助制度を整え、保障することは、障害者の暮らしを妨げる社会的障壁をなくし、地域で暮らすための合理的配慮を実現することである。また同時に、健常者と障害者が接触する機会と、それにともなって、健常者が自身のアイデンティティや立場性を「揺さぶられる」回路を確保することでもありうる。こうした「しかけ」をセットするために、介助を受けること保障する/介助に従事することを保障する「制度」は必要なのである。
#CIL的なるものをどのように乗り越えたのか
CILは、福祉の贈与性を脱色し、擬似的な商品交換によって介護者と被介護者の均衡を保ち、難しさを「回避」しようとしていたのに対して、公的介護保障要求運動は、<他者の歓びが直接に自己の歓びである>ような、自己贈与が自己保存と「張り合わせ」になる福祉を求め、難しさに「直面」することに「賭け」た (639)。そのような意味で、要求運動が「局所的」である一方で、CILは「普遍的」であり、両者は「相補的」(588) な関係にあるという。しかし、やはり同時に、両者が乗っている共通の基盤を再確認しておく必要があろう。それはどこにあったのか。
出会った人びとに「負い目 / 後ろめたさ」の感情を抱かせるほどの贈与の一撃。しかし、これが、新田だからこそできたことなのか。あるいは、新田に限らず、人が人を支えることがどうしてももってしまう原的な関係性なのか。いまもって判然としない。人は誰もが互いに「負い目」をもつものだ、まして障害者をや、といった、それこそ普遍的な議論を受け入れてよいのか。いずれにせよこれらの「CIL的なるもの」を反転させることで、贈与の体系としての福祉に、反-近代的な、非合理なものを取り返そうとしているようにも見える。
しかし、こうした議論に載ってしまってよいのか、評者の力量不足もあろうが、最後までわからなかった。
また、たとえば、足文字を読むことによって「同期する身体」。あるいは、食事を共にすることで「同期する身体」(なぜか他者が同時にトイレを催すなど)。こうした、「身体」をめぐる問題と、制度をめぐる問題とがいったいどのように関連しているのか、一読しただけではよくわからないところがあるし、評者としては強く興味のひかれるところでもある。しかしこれらの課題もやはりまた、エロスを例示する「ちょっとしたエピソード」といった位置づけしか与えられていないようにも見え、また、「エロス」という非合理のブラックボックスに封印されてしまっているきらいがあり、非常にもったいなく感じた。
さらには、本書のなかでは相対的に後景に退きつつある、こうした「介助すること/世話すること」による健常者のアイデンティティの問い直しといった議論は、どのように位置づけられるのだろうか。わたしたちのまえにはまだ、多くの問いが残されているようにも思える。