(1) ただいまご紹介いただきました末森と申す者です。書記日本語を第一言語、手指日本語、手で表す日本語を第二言語とする聴覚障害者ですので、手話を用いて発表をいたします。今回の発表のタイトルは西夏文字に見られる「障害」 および 「情報伝達」 の認識機序というものです。なぜ、西夏文字という今は使われていない文字を調べたのかということを話す前に西夏文字とは何かと言うことについて少しお話ししたいと思います。 (2) 西夏王国は1032年、中国の西北部のあたりにタングート人が立てた国でして、だいたい200年間続きました。今は中国の甘粛(かんしゅく)省や寧夏(ねいか)回族自治区になっています。このあたりはイスラム教徒が多いのですが、西夏王国は仏教が盛んな国でした。 (3) 実は西夏文字をあしらったTシャツがありまして、私も愛用しています。このTシャツの写真をご覧ください。3つの西夏文字が書かれていまして、上からミ、ウィル、ンディと読みます。西夏王国の人たちは西夏王国の言葉で自分の民族名をミと読んでいました。ウィル、ンディというのは文字という意味です。つまり、この3つの西夏文字で西夏文字を意味しているんです。この西夏文字は漢字のように長い歴史の中でいろいろ作られたり意味が変わったりしたわけではなく、西夏王国ができたまもない1067年にだいたい6000字がまったく新しく作られました。西夏王国は1227年に滅んだのですが、西夏文字はそのあとも16世紀の初め頃まで使われていたことがわかっています。この文字は19世紀に再発見され、1970年代に解読されています。特に京都大学の西田先生が西夏文字の解読に貢献した人として有名です。この西夏文字の解読を通して、西夏文字を新しく作ったときに、漢字の成り立ちとはかなり異なる概念や認識が働いていたことが明らかになっています。 (4) ちょっと話が飛びますが、現在の日本における障害学、特に手話言語とか聾者という概念を見ると、欧米の概念の輸入がもてはやされ、ともすれば、日本の聾者の意識は遅れているとか、日本は手話言語につめたいというような話がまことしやかに話されています。しかし、そういう話があるわりには、日本を始めとする漢字文化圏で障害者に対する社会の見方がどのように変わってきたのか、それは欧米の障害者の歴史と同じようなものなのか、というあたりは必ずしもきちんと整理されているわけではないようにも思います。そこで、漢字をまねて作ったというと失礼かもしれませんが、漢字文化圏にはいる西夏文字、いわば漢字文化圏の周縁にある者界野中で使われていた文字を通して、そこではいったい障害者とか情報伝達というものがどのようにみられていたのかということを調べて、それを欧米の障害者史や言葉の歴史とも比較してみることも意義があるのではなかろうかと考えたわけです。 (5) これから障害者に関わりのある文字を紹介していきたいと思います。これは「盲」「目が見えない」という意味を表す西夏文字です。片仮名のラ、カを縦に続けて書いて,その隣に漢字の一、片仮名のコ、下の棒がない漢字の「口(くち)」を書くという感じですね。 (6) 向かって左に書かれている片仮名のラ、カは、西夏文字の構成素の一つで「見る」という意味を含むものです。 (7) 向かって右に書かれている一、コ、下のない口は西夏文字の構成素の一つで「否定」を意味するものです。 (8) まとめてみますと、「見る」という意味を持つ構成素に「否定」を意味する構成素が合わさって、「目が見えない」という意味をもつ西夏文字になるわけです。こういうふうに何かしらの概念を意味する構成素に否定を意味する構成素をつけて作った西夏文字もたくさんあります。 (9) 次は耳が聞こえないという意味を持つ字を紹介します。向かって左側にある文字は「耳」という意味を持つ字です。片仮名のソ、横棒、片仮名のヒに、「否定」とか「反対」とか「弱くなる」というような、いろいろな意味を持つ構成素、片仮名のノとレがつながったようなものが合わさって、「?」という意味を持つ西夏文字になります。この「?」という漢字は日本ではまずお目にかかれませんが、中国では今でも普通に使われている文字で、「生まれつき聞こえない」という意味を持っています。 西夏文字はどのような判断に基づいて字を作ったのかと言うことがよくわからないものも多いので、これはあくまでの一つの解釈ということでお願いします。でも、これからわかることは、障害に関係のある字は、「否定」や「弱くなる」「反対」というような、否定的な概念を持つ構成素を含む場合が多いと言うことがわかります。 (10) 次に「聾」という意味を持つ字を紹介します。向かって左側にある字は片仮名でフ、サ、ノ、メをつづけて縦に書いた感じのものです。これは「皮」を意味しています。真ん中にある字は、片仮名のノ、ノ、メを続けて書いた感じですが、これは「人」を意味しています。向かって右側は「聾」を意味する西夏文字なんですが、どういう原理でこの文字を作ったんでしょう?いろいろな解釈が考えられると思いますが、人を皮で被うことで「聾」を譬喩的に表現しているのかもしれません。すくなくともはっきり言えるのは、否定を意味する構成素が含まれていないということです。否定を意味する構成素を用いることなく、譬喩的な概念を用いて、障害を意味する字を作る例もあるらしいと言うことがおわかりいただけたかと思います。 (11) 次は情報伝達に関係のある字を紹介します。「語(ご)」とか「詞(ことば)」を意味する西夏文字は、片仮名のコ、フ、レを続けて書いた感じのものが「音」や「言葉」あるいは「言う」を意味することもある構成素です。 (12) この文字も「語(ご)」とか「議論する」という意味をもつ字なんですけど、片仮名でソ、フ、ノ、メと書いた感じのものは「手」という意味を含む構成素なんです。どうして「手」という意味を持つ構成素が「言葉」を意味する西夏文字に含まれているんでしょう?しかも、このように漢字で言う手篇、手という意味を持つ構成素を含み、「言葉」とか「伝える」とか「話し合う」というように、情報伝達に関わる意味を持つ西夏文字が少なくとも6つはあることがわかっています。もちろん、この場合、手を持つという意味はなく、いろいろな経緯があって、たまたまそういう構成素が含まれることになったということも考えられると思います。ただ、どうして、手という意味を持つ構成素が情報伝達の概念を含む文字に含まれているのかという前提に立って考えてみることも決して無駄ではないと思います。 (13) 今まで西夏文字の話をしてきましたが、西夏文字の情報伝達に関する文字から何が窺えるのか、少し考えてみたいと思います。これはレオナルド・ダ・ヴィンチです。ヴィンチがいろいろ書き残したメモをヴィンチの弟子がまとめて『絵画の書』という本を出しています。この中には「絵を描く練習のためには、唖者の身振りや表情などをスケッチするといい」というような話が結構載っています。当時の唖者たちが使う身振りは現在の我々から見れば、ちゃんとした手話なんでしょうけど、ヴィンチは当時の唖者質が使っていた身振りは言語とは見なしていなかったんですね。 (14) この肖像画はドイツのライプニッツという有名な人です。ライプニッツを中心とする当時の知識人たちが提唱した普遍言語運動というものがありまして、人類の祖先が使っていた言語はどのようなものだったのかとか、人類共通の言語を造ることはできないだろうかというようなことを話し合っていたんですけど、その中に唖者の身振りは言語を使わない意思疎通手段なのではないかというような唖者の手話をある意味で評価する動きもあったんです。 (15) この肖像画はヴントという人です。向かって右側にあるのは当時の人たちが考えたインド=ヨーロッパ諸語の言語系統樹ですね。このインド=ヨーロッパ諸語の祖先でもある原初語、ドイツ語ではウーアシュプラッヘというんですけど、この図ではオレンジ色の楕円で囲んであるところです。ヴントは唖者が使う手話には原初語としての性格が見られるのではないかというような、非常に先見性の高い意見を述べているんですね。 (16) 一方、先ほど紹介した西夏を含む東アジアではそういう音声言語と手話言語の関わりについての考察はなかったんでしょうか。中国の文献を紐解いてみると、遅くとも5世紀までには完訳された仏典『中阿含経』の中に「唖者は羊が鳴くような奇声を出し、手を使って離している」というような記述があるんですね。また、宋時代に編まれた百科事典のようなもの『雑纂(ざつさん)』という者があるんですけど、この中に「唖者が使う『手勢』は理解しがたいもの」という記述があるんです。 (17) ここの紹介した絵は、江戸時代中期の本に載っているもので、朝鮮通信使が名古屋に泊まったとき、地元の武士たちと筆談で話し合っている様子を書いたものです。通訳がつかなかったのかなと少し不思議に思わないでもないのですが、ともかく、お互いに漢文を書いて質問をしたり、応えたりしたわけです。つまり、日本語と朝鮮語、という音声言語、あるいはひらがなやハングルを書くという形では意思疎通はできないけれども、漢字という、当時のリンガフランカのようなものを用いて情報交換をおこなったわけです。 (18) これは宮崎滔天(みやざき・とうてん)という人が中国の孫文と筆談で話し合っている様子を見せている人形です。明治時代になっても、日本人と中国人が通訳を通さずに、お互いに漢文を書いて、直接話し合うということは普通におこなわれていたわけです。中国では昔から異なる地域の人がそれぞれの方言というか、たとえば昔の北京語と広東語ではお互い何を言っているのかわからないため、漢文を書いて話し合ったという話はいろいろな文献に見られます。 (19) ここで西夏王国の話に戻ってみましょう。西夏王国は漢字にならって、西夏文字を作りましたが、漢文の読み書きができる人もたくさんいましたし、必要な場合は宋、当時の中国にあった王朝の人とか、周辺の国の人たちと漢文で筆談をすることも普通にあっただろうと思います。ヨーロッパでは昔はラテン語がリンガフランカとして機能していましたが、表音文字が中心だったため、言葉が違う人が筆談で情報交換をおこなうということはあまり考えられなかったわけです。それに対して、一つの文字でその文字の読みに関係なく、共通の意味を表すことができる漢字を使っていた漢字文化圏では筆談という情報伝達手段が大きな存在感を持っていたことは確かであろうと思います。すなわち、ヨーロッパと漢字文化圏では、情報伝達手段とか会話における概念がかなり違う面もあるのではないか、そういうことをもっと深く掘り下げていくことが望まれるのではないかと考えるようになったわけです。それはひいては、聴覚障害者の筆談という行為に対する社会の目というものもヨーロッパと漢字文化圏とでは違っていた可能性もあるということ、いわば漢字文化圏における情報伝達概念の特性として、手話言語学とは別に筆談学とでもいうべき分野を開拓していくことも望まれるのではなかろうかという話をまとめとして今回の発表を終えたいと思います。ご静聴ありがとうございました。 ==